たまたまケーブルで「カートゥーンネットワーク」の海外の子供用のアニメを見ていたら、内容が日本のそれをくらべて非常に大人っぽいストーリー、セリフ回しが気になった。
ここで思い出されたのが、フィリップ・アリエスの『<子供>の誕生』と渡邉周子の『<少女>像の誕生』などの歴史社会学・ジェンダー社会学的な研究。特にアリエスの『<子供>の誕生』は有名で、17〜18世紀のヨーロッパには「子供」というのは存在せず、「小さな大人」として扱われていたという論だ。
一方で、ルソーが『エミール』で語ったように、子供は子供であるべしという論も存在したのは確かだが、社会学的な文脈では、「子供」も「少女」もそれぞれ学校の存在や社会的な必要性からそれらのカテゴリーが生まれたのだとされている。この意味においては、”こども”とは社会構成の中でなんらかの意味を与えられている存在だと言える。
さて、海外、特に欧米と日本のアニメを見比べていると、前者は”こども”を「小さな大人」として扱っているような構成になっていて、後者は”こども”を「子供」として扱っているような気がしてならない。カートゥーンネットワークで放映されてるようなアニメを見ると、そこかしこに現在の社会の状況を反映していたり、大人並みの人間関係の衝突などのトピックが見られる。一方で日本はいわゆる子供っぽい感じのキレイなストーリー展開になっているように思える。
思うに欧米のアニメというのは、大人の社会をモチーフに子供に当てはめて作られてるのであって、対して日本はあくまでも「子供とはかくあるべし」という前提の中で作られてるのではないだろうか。前者の場合には、時には「子供にこれわかるのか?」という話もあるものも、きっとそこには大人のサポートがある前提で、こうこうこういうことなんだよ、と親が教えるというのがあるのではないかと。つまり、ちゃんとした「大人」になる準備期間として”こども”時代が想定されている気がする。
こう考えると、欧米は未だに背景には「小さな大人」という観念が存在し、そして一方で日本では、”こども”時代を「子供」として大切に大切に育てられ(すぎ)るルソー的な”こども”教育があり、それが結果としてちゃんとした「大人」になりきれない「子供」、つまり「大きな子供」を生み出すようになっているのではないかと。
アニメも一つの表象文化だとすると、それが職業人によって作られていたとしてもやはり深い社会的な意味付けの影響は受けていると思われる。それゆえ上に書いたようなことも、あながち外れてないのではないかと思うのだが。
(参考)
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